西城町のみどころ

蓮照寺のしだれ桜

西城川沿い、国道183号から市街地への入口に、大富山蓮照寺があります。その歴史は古く、永正12(1515)年の開基と伝わっています。
 本堂の横に優美な姿で佇んでいるのが、樹齢約150年のエドヒガン系の枝垂れ桜で、約10mの樹の頂きから地表近くまで、やや濃い目の花がいっせいに咲きそろう様は圧巻。夜間照明もあり、夜桜も楽しめます。例年の見頃は、4月10日前後です。

 

 

大富山城址

天文2年(1533年)宮高盛によって築かれたと云われる。はじめ東城町久代を本拠としたことから久代宮氏とも呼ばれ、高盛は九代という。

宮氏は亀寿山城の宮氏の庶流と考えられているが、久代記では応永6年(1399年)に初代利吉が大和国宇陀郡から備後国奴可郡久代へ遠流されて土着したとする。

もともと五品獄城を居城としていたが大富山城を築城し居城を移した。これにより西条と呼ばれていた地名は西城と改められ五品獄城のある地は東城と呼ばれるようになったと云う。

天正18年(1590年)11代宮広尚のとき毛利輝元の怒りをかい、伯耆国日野(一説には出雲国塩谷)に移封させられた。

 


六の原製鉄場跡(たたら跡)

六の原製鉄場跡(たたら跡)は,県民の森入口の東西を渓流に挟まれた低平な丘陵上に位置する。北側には金屋子神社があり,西の渓流を約100m遡った左岸には,床に木を張る鉄穴洗し(かんなながし)の洗池2か所が残り,砂鉄の採取から製鉄までの遺構が分布する。たたら場は周辺部が削平され,高殿ならびに炉は残っていないが,その地下構造の本床と一対の小舟が明らかにされている。地下構造は,「鉄山秘書」に見られるものより簡略であり,赤目砂鉄を使用する場合の特徴であろうか。文献によると,近世末から明治時代初期まで操業されている。なお,本遺跡の西北や下流の一の原などにもたたら跡が分布しており,後者では小舟が検出された。        

日本刀製作技術

現在の日本刀の形態は平安時代後期に現れ,その姿形の美しさと地鉄(じがね)の鍛え(きたえ)肌や刃文(はもん)の多様さから,鉄の芸術品として高く評価されている。
広島県でも,鎌倉時代後期には刀匠の存在が確実であり,以来700年以上にわたり途絶えることなく,多くの刀匠が工夫と鍛錬を重ね,作品を作りあげている。
現在、保持者として、庄原市西城町の久保善博(刀匠銘 善博)氏が認定されている。


西城浄久寺のカヤ

本樹は,樹高約22m,胸高幹囲3.98mで,主幹が直立し,枝の発達もよく,樹勢はすこぶる旺盛で多数の果実をつける。カヤとしては県内有数の巨樹である。なお本樹は永禄年間(1568~1570),大富山城主宮高盛が菩提寺を建立した際に植樹したと言われる。

北村神社の巨樹群

道後山の麓にある北村神社境内(413平方メートル)には見事な巨樹群が形成されている。イチイ・スギ・トチノキ・エノキの4樹は稀にみる大木で,樹高は,イチイ約17m,スギ約27m,トチノキ約22m,エノキ約22m,クヌギ約23m,オオモミジ約20m,胸高幹囲は,イチイ4.4m,スギ3.85m,トチノキ4.15m,クヌギ1.96m,オオモミジ2.35mである。樹齢はいずれも300年を超えるものと推定される。